西町軕組が所有する猩々軕(しょうじょうやま)は、永代記録によれば、1762年(宝暦12年)に軕を求めたと記されています。かつては布袋軕でした。

その後、1794年(寛政6年)11月20日夜に発生した「高田の大火」により焼失しています。

現在の軕は、1822年(文政5年)に再建をはじめ、江州(滋賀県長浜市)の大工によって白木の軕を作りました。その後、10年の歳月をかけて、1832年(天保3年)に軕の漆塗りが完成し、高田の大火から40年の歳月を経て、再建が完了しました。この間の費用の調達には非常に苦心したようで、総費用の半分を組内各戸の「一日一厘」の積立金より搬出し、残り半分は、温故社(当時の有力者である日比七兵衛他6名)の積立で集められたそうです。悲願の再建がなされ、当時の軕組関係者は泣いて喜んだと伝えられています。

1844年(天保15年)から1857年(安政4年)までの14年間で修理を行い、1867年(慶応3年)には、下勾欄(中段手すり)の青貝塗、1869年(明治2年)上勾欄の金具の取り付け、1878年(明治11年)日覆裏修理、1920年(大正9年)には、軕倉建設。1930年(昭和5年)日覆金物新調、1942年(昭和17年)に波兎水引を修繕し、翌1943年(昭和18年)に雲龍水引幕の修繕を行っています。

屋根は珍しいもので、造りは入母屋平入造りの改良型、千鳥破風の屋根を左右に備えていて、前後には獅子頭、左右には鯱が置かれています。

また、装飾品についても、勾欄には繊細な青貝塗が施されています。本楽の見送り幕も作者は不明ですが、京都で作られたと伝わっていて、隋代の故事を元に、鉄拐仙人が小人を吐き出す場面が刺繍してあります。見送り幕をご覧の際には、ぜひ彫刻の鉄拐仙人とを見比べてみてください。

そして、西町が最も誇るべき美術品が「立川流彫刻一式」です。製作者は信州諏訪の立川流彫刻師2代目立川和四郎富昌と、3代目和四朗富重、その弟の専四朗富種により1844年~1857年(弘化1年~安政4年)の約13年間で制作されました。当時の立川流一門とのやりとりは、現在でも残されていて、当時の時代背景や、力を入れた作品であることがわかります。他にも、地元高田の彫刻師、早瀬忠兵衛藤原重興の優れた作品を取り入れ、美観と偉容をを備えるに至ります。

からくり人形の猩々とは、赤い長髪で、酒好きの生き物です。謡曲「猩々」に合わせて舞い、『孝行息子である酒売りの人間の素直さを認め、酒壺に尽きることのない永久に湧き出る酒を入れ与える。いつまで飲んでも減らぬ酒。そうしているうちに秋の夜は更けていき、月も傾き、枯れた草にたたずむ猩々の足元はよろよろとして、ついには寝てしまう。気づくと、それは酒売りの夢の出来事であった。しかし、汲んでも尽きない酒壺はあり、そのおかげで酒売りの家が繁栄したのはとてもめでたいこと』という物語です。

現在の人形は、1912年(明治45年)5月から使用されており、京都で造られた作者不明の作品で、2014年(平成26年)に大規模な修理が行われています。

舞は、岐阜県大垣市岐阜町の宮崎富次郎に頼み込んで学んだとされています。本来は、2体のからくりを用いますが、現在は1体のみを使用しています。謡曲は、長年町内在住者の謡いを録音し使用していたが、2012年(平成24年)からは、能楽師の吉田篤史氏による謡いを用いています。

また、前軕に設置されている采振り人形は、昭和期になって新たに制作されたもので、からくり人形師7代目玉屋庄兵衛の作品です。

お囃子には、間尺笛、締め太鼓、平吊り大太鼓が用いられています。曲目には、からくりの「猩々」。道中囃子には、難易度が簡単なものから順に、「ひゃらりー」「二、一」「親鳥」「六斎(そおりゃ)」「早神楽」の計6曲です。かつては鼓を使っていた、現在は演奏されていない曲があったとの説があります。また、「早神楽」は、本来は東軕組の曲目です。経緯はわかっていませんが西町軕組に伝わり、手が加えられ、西町軕組流の「早神楽」として、演奏されています。ただし、この曲の演奏には強い制限がかけられ、祭りの間では本楽曳き別れ後の10分程度しか演奏されません。また、西町軕組の「親鳥」と、東軕組の「しゃんぎり」についても曲調が非常に似ていますが、関連はわかっていません。

軕は、最大の高さ6.5m、間口2.98m、奥行6.00mです。